流派と言われる多岐にわたる近代的なヨガ、また○○ヨガと名のついた流行りのヨガに対して、インドの伝統的なヨガが着目され、マットの上でポースを取るだけなのがヨガではない、ということがようやく現代にも認識されるようになってきたように思います。
伝統的なヨガにも種類のヨガがあり、その中に「ジュニャーナヨガ」とう種類があります。
これは、真の知識を追求していく哲学的なヨガです。
日常の中でいつでも私が意識しているヨガでもあります。
(私なりの解釈です。)
「私とは一体何者ですか?」
この問いから「経典」「理由」「経験」をもとに、理性的に自己の内面を分析し解脱に至り、真の知性・知識に到達します。
ヨガの目的は真我への到達。
自己の気づきを通して本当の自分、自分の本質、という”真我”に気づきます。
その真我というのは、誰しもが生まれもって存在するものでありますが、生きていく中で経験を通して蓄積されてきた記憶の集合体である顕在意識と潜在意識に覆われているために、気付かなかったり見失いやすいものです。
しかし奥には必ず”真我”が存在しています。
以前、サーンキャ哲学の心の構成についての記事『心を解く・アハンカーラ』では、
3つの構成から成る心について、また感情に左右される”アハンカーラ”=自我について説明しました。
ここでいう心の動きと真我の関係という観点から考えてみました。
生きていると、楽しいことや嬉しいことばかりでなく、悲しいことや辛いともあります。
思い通りにいかないと誰かや何かにあたってみたり、自分自身を責めてみたり、それに対して自己嫌悪に陥ってしまったり・・・
期待していたこと違って落ち込んだり、うんざりしたり・・・
誰しもが経験することではないでしょうか。
自分や他人を責めたり、今起きていることに意味付けをすることは、はっきりいってナンセンスなことで、結果得るものは何もなく、残るものは”苦しみ”だけ。
それがアハンカーラ(自我)によってコントロールされている心なのですね。
アハンカーラ(自我)の本来の意味である「私」という創造物とそれを創り出す「道具」
この二つが仲良く付き合えば、心がコントロールされるのではなく、心をコントロールすることができるのです。
奥には「真我」という絶対なる存在があることに気づけば、何も動じることはありません。
心の真ん中にはブレない軸があるから、そこから様々な方向へ動くことがで、またそこに戻ることができます。
それは、外から左右されるものではなく、自ら自由にコントロールすることができるもの。
抑えつけるのでもなく、消し去るものでもなく、ただ在るものを認めるのです。
大切なのは、観るものと観られるものの傍観者になること。
そのためには、客観的に物事を見る冷静な精神状態であること。
そうすると、問題だと思って困っていたことは、自分のフィルターを通してみていただけで、ただ起きていることとに気づき、そこに心が大きく動かされることがなく心への苦しみも伴いません。
目に見える外の世界ではなく、心の在り方こそが現実です。
では、どうすればそのような精神状態でいれるのでしょうか。
そのツールの一つとして、実践的なアーサナ、呼吸、瞑想はとても有効です。
体の重心を作る練習は、心の重心を作る練習にもつながります。
アーサナ(ポーズ)と通して、身体を鍛えることが精神を強くしていくことに繋がるように、哲学を学び精神を鍛えることで、心身の健康の向上といった意味では共通していると思います。
深い眠りから覚めたあとは、より感覚が繊細に働き静けさと安定さを求め一定のところに落ち着く。
それは嵐の後の静けさのような感覚にも似ていて、緊張から解けた安心感に包まれる。
いつもでも心が平和であり、それを映し出すもの全てが平和であってほしいと願います。
∞お知らせ∞
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